昭和19年4月3日(日)のすずさん。
この日は戦前の祭日「神武天皇祭」にあたり、いわゆるハタ日ということになる。この日の呉の午前6時の気温は5度。当時の人の日記に、まだまだ朝はけっこう寒く、手が凍てつく、と書かれている。こうのさんの原作にも書かれているとおり、広島県地方ではこの4月3日を「お節句」として桜の花見をする習慣があったみたいなのだが、この年の呉ではまだ桜は咲き始めていなかった。
昭和20年4月3日(火)のすずさん。
同じく神武天皇祭の祭日でありお節句でもある日。この日、すずさんは一家で花見に出かけている。場所は市内の二河公園。
この公園は戦前から花見の名所だったのだが、公園の端にある石風呂山にはたくさんの防空壕がうがたれ、呉市役所の疎開先になっている。公園敷地の反対側には、海軍工廠の工員宿舎が建てられている。にもかかわらず桜の木が数多く残されている様子なのは、皮肉にも米軍の航空偵察写真に写されて残っている。この桜の木々が切り払われて食糧増産のための畑に変わってしまうのは、これも皮肉なことに戦後になってからのことだ。食糧難は戦中よりも戦後の方がさらにひどくなった。
戦争末期のこの年にもお花見が行われていたのは原作のとおりで、海軍工廠などもお休みになっていたらしい。兵器生産の増強が行われていたのは、本来昭和19年度に行われるはずだった決戦に間に合わせるためで、あるいはこの時期にはもうそんなに無理をするような状況でもなかったのかもしれない。
この日、佐世保ではそろそろ花が散りかけていたという話もあるから、23度まで気温が上がった呉でも花曇りの下で桜が舞い散っていたかもしれない。
航空機雷を撒きまくって呉港内を機雷原に変える米軍の作戦で、前日には軍港の軍艦の周りで爆発が起こって死者が出てしまっている。お花見の翌日4日からは、木製の機帆船を使って呉軍港内の掃海が始まる。掃海というのは、潜んでいる機雷を爆発させてしまうことなので、いずれにしてもこの頃の呉の港は、爆発音と水柱で猛々しいことになっていたはずだ。
平成27年4月3日(金)。
広島へ出かけた。『マイマイ新子と千年の魔法』を作ってから、ロケハンで何度も訪れた映画の舞台防府国衙を歩いて、新子と同じ景色を眺めようという「マイマイ新子探検隊」と名づけたイベントを繰り返してきた。「探検隊」とネーミングが子どもっぽいのは、最初は地元の子ども会のイベントだったからだ。2回目からは完全に映画のファンの人たちのためのものになった。そのうちに、その常連となった人たちの間で、『マイマイ新子』のラストシーンのお花見の場面にちなんで、その同じ佐波川の土手でお花見をしようじゃないか、ということになった。僕や丸山さんもいっしょに加わった。佐波川土手の桜並木はかつてはかなりのものだったようなのだが、堤防の改修ですべて伐採され、その後にひょろひょろした若木が植わっているだけなのだが。
そうやって、探検隊だとか花見で年に2度以上は確実に訪れるようになって、防府の町の人たちとも親しくさせてもらえるようになったのだが、『この世界の片隅に』の制作で忙しくなって来るだろうから、その完成まで当分のあいだお休みにしよう、ということになった。なので、今年は『マイマイ新子』の花見はしないはずだった。「次に防府に来るのは『この世界の片隅に』の完成後に」と宣言したのは自分自身だったのだが、そうもいっていられなくなった。
防府在住のファンの女性の方が2014年11月に亡くなった、という知らせが入ってしまったのだった。2015年の春も防府に赴くことに自分の気持ちを変えた。お花見のために、お墓参りのために。
山口県防府へ行く、ということになると、広島にも立ち寄る用事もできた。呉や広島で『この世界の片隅に』を支えて下さる方々ともお目にかかっておきたい。そうしたこともあって、4月3日金曜早朝の新幹線に飛び乗った。東海道を西に向かうに連れて雨が降ってきた。広島へ着くと花見どころではない土砂降りになった。会合は平和記念公園のレストハウス(旧・大正屋呉服店)でおこなわれたのだが、思えばここ数年は防府に花見に行くたびに広島に立ち寄ってロケハンを繰り返していたのだった。平和記念公園の桜の花は毎年見ている。
4月4日土曜日、広島を発ち、防府へ向かった。天気は相変わらず悪かった。
防府を入ると、地元のラジオ局「FMわっしょい」にまず向かった。このラジオ局のスタジオの前は、防府市内でも確実に『この世界の片隅に』のポスターを貼り続けてもらっている場所でもある。防府を訪れるたびにここで番組に出演させてもらうのがいつの間にか決まり事のようになっていた。防府でのすべてのことが「いつものこと」「もう何回目なのだか数えられないほど繰り返してきたこと」になっていた。
ラジオへの出演が終わって外へ出ると、いつの間にか空は晴れていた。あの雨雲はどこへ行ったのだろう。食べ物を買出しして、佐波川の土手に向かった。こんなに天気のよい『マイマイ新子』の花見も珍しかった。花が散り始めてもいなかった。
それから大平山の中腹の霊園に向かった。お墓の場所は、亡くなった方の息子さんからうかがっていた。その場所を訪れ、立ってみると、気持ちのよい場所だった。高台のその場所からは、あれほど自分たちがロケハンで歩き回り、映画完成後も探検隊の名のもとに歩き回った防府の町が一望に出来た。すべての場所が、切れ切れの雲の下に見渡せた。
自分もいつか眠りにつくのなら、あれほどの自分たちの足跡を眺めながらこういう場所で、というのもいいかな、などとつい思ってしまった。
桜の花には、そんなこの世離れした気持ちを浮ばせてしまう何かがあるのかもしれない。まだ少し寒かった3月19日の初空襲以来、空からの脅威に蝕まれる一方になってしまった呉の人々が、自分自身にとって最後になってしまうのかもしれないお節句の桜に何を見たのだろうかと思うと、切なくなってしまった。