昭和19年4月12日(水)。
政府内務省の中に防空総本部というのがあって、その防空総本部警防課長から、内閣官房総務課長宛に、
『身許票整備に関する件』
という通知が出されている。本文は、
「標記の件に関し今後別紙の通り各都庁府庁長官宛通牒致置候條通知候也」
――つうちょういたしおきそうろうじょう、つうちそうろうなり。
この頃のこうした公文書は、お侍さんみたいな候文だったりする。こうした書き方は終戦直後に急激に改まって、ふつうの文章になるのだが。
意味は、これから空襲が始まったりするかもしれないから、市民に身許票を携帯させるよう、その整備を進めることを各都道府県に向けて通牒したので、通知しておきます、ということ。
―「身許票」というのは、戦時中を描いたドラマなんかでよく衣服の胸元に縫い付けてある名札のことだ。具体的には、こんな体裁にしろ、と別紙の方に記されている。
血液型とか連絡先を書くように勧められているのは、身許票をつけた当人が負傷したり、もっとたいへんなことになったときのことを想定してのことで、つまり、この時期から政府中央は本土空襲をかなりの確度で起こりえることとみなしていたのだった。この時期、まだマリアナは米軍の手に渡っておらず、B-29を日本本土まで飛ばすための基地をアメリカ側は持っていない。中国大陸からもB-29はまだ飛んできていない。そうした時期にもう政府中央は負け戦を理解していたのだった。
ただ、この19年4月の通牒は、都道府県知事宛のもので、その都道府県庁からその下の各市に伝達されるのは5月のことになる。6月になって中国大陸の基地からB-29が九州まで飛んでくるようになる。その頃に至るまで、一般市民のあいだにはまだ実感がない。
その後の7月、政府広報誌「週報」に、
「必ず身許票を」
という記事が出ている。
空襲時の死傷者や避難者等の身許を明らかにするため、各自は予め「身許票」を所持する必要がある。この型式はだいたい下図(ここでは省略)に示す通りでよく、白色の布地または丈夫な厚紙、板片等で作り、上衣の上前、胸部の裏側に縫いつけるか、或いはポケット内に携帯する。出来ればズボンにも縫いつけておくがよい。みたいな内容のことが述べられている。国民学校(小学校)の女児なんかも、この頃から徐々にモンペ履きに変わってゆく。最初に内務省通達が出てから3ヶ月。実質的な危険が迫ってきて始めて、その危険に対応するために市民の衣服も変りはじめる。
こうした経緯もすずさんには知るすべのないこと。19年4月のすずさんは、まだ平穏の中にある。
こんなふうに、物事にはそれが始まった経緯というものがある。
戦時中といえばイメージされるものには、ほかに「男性の国民服着用」「女性のモンペ履き」「灯火管制」「窓ガラスに細切りの紙でバッテン」みたいなことだろうと思うのだが、そのひとつひとつについて、同じように出発点がどの時点のものなのか調べてみた。
けれど、「女性のモンペ履き」と「窓ガラスに細切りの紙でバッテン」はそれを開始させた公的通達や法令を見つけることが出来ない。
平成27年4月12日(日)。
ここのところ、毎日曜日に用事があったので、丸一日休めるのは久しぶりだった。犬を公園のドッグランに連れて行ってやった。ドッグランでは、日曜日の朝のたびに顔を合わせる常連さんたちがいて、仲良くさせてもらっている。この日はこの人たちがお花見を企画していたようだった。まだぎりぎり桜の花が残っていた。
「ごいっしょにどうですか?」
といわれ、実はうちの犬はこの冬の間に体にあちこちガタが来ていて、長い時間屋外に出すのも久しぶりだったので、大丈夫かな? と躊躇もしたのだが、暖かいし、まあいいや、とお誘いに従うことにした。犬も久しぶりに半日を外で過ごして、少しくたびれたようだったが、それなりに満喫していたみたいだったので、まあよかった。このワン公も『マイマイ新子と千年の魔法』のときに子犬でうちに来たのだったが、いつの間にか犬の年齢で中年に差し掛かってしまっている。
この2日前、4月10日(金)には作画打合せを新規の2シーンについて行った。そんなふうに原画まではまだしも着手していけるのだが、動画にしたり、色の着いた画面にしてゆくのは今後の展開になる。