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片渕須直監督コラム「すずさんの日々とともに」

   第6回「27年5月」ゴールデンウィークには徳島へ

   5月5日(火・祝)には以前からコミティアでのレイアウト展とトークの予定が入っていたのだが、そこへ来て4日に徳島のマチアソビでトークイベントをやらないかという話をプロデューサーの真木さんから受けた。
「5日の午前中くらいに東京に帰れればいいんだろ?」
「いやいやいや、5日早朝からビッグサイトに搬入して展示設営です。なんとしても4日の間に東京に帰っていなくては」
   などといっていたら、徳島でのトークのスケジュールが3日夜になった。これがまた当初23時から24時くらいという絵にかいたような強行軍日程だったのだが、その日の数日前になって19時半から20時半に変わった。それでいてまた4日午前中にもイベントの予定が入ってきた。

   実を申せば四国に渡るのは初めてだった。島々を除けば、国内では本州のほかは九州に行ったことがあるだけで、北海道も四国も自分にとっては未踏の大陸だったのだが、今年は全部制覇できてしまいそうな勢いになっている。
   瀬戸内海はあんなに何度も眺めてきたのに、対岸にまで足を伸ばしたことがなかったのだった。そういう意味では、自分たちが散々あちこち出向くのはやっぱり「ロケハン」なのであって、「旅行」とはちょっと違っていたのだった。目的外のところまではあまり立ち寄らない。そこへ今年は「前宣伝」という目的がついてきている。

   徳島駅に降り立つと、真木さんだけでなく、津堅信之さんとまつもとあつしさんがおられた。ふたりともアニメーション研究者の方々だ。今夜のトークの司会はまつもとさんが務めて下さる。ほかには真木さんもお客さんの前に座る。
   打合せをする。進行表を作っていただいていたのだが、今まで『この世界の片隅に』のトークイベントは1回3時間でやってきている。今夜は1時間しかない。
「なので、申し訳ないのですが、『それぞれ一言ずつ挨拶』みたいな段取りはすっ飛ばしていただいて、出来るだけ早い時点からこちらに話し始めさせていただけないかと」
   実は、僕が到着するまでは、せっかくおられることだし、途中で津堅さんもトークに参加するという展開も考えられていたようだったのだが、津堅さんは、
「じゃあ、僕は引っ込みます」
   と自ら身を引かれてしまった。津堅さんに喋っていただけるのならこれに越したことはないのだが、持ち時間が全体で1時間という中では致し方ない。

   トークイベントは映画館で行われた。ぎっしり入ったお客さんに、
「はじめまして」
   といってから、
「あ、初めてじゃない方、どれくらいおられますか?」
   と聞いてみたら、結構な数の手が上がった。
「防府でごいっしょしました」
「呉で」
「僕は大阪で」
   胸打たれる。これまでの日々にはやはり意味があったのだ。
   反対に「原作を全然読んだことない方は?」とたずねたら、これもかなりの手が上がった。じゃあ、どういう興味でこの場へ?
   あとでご本人たちにうかがったのだが、
「友人に薦められて来ました」
   ということで、『この世界の片隅に』の存在を周囲に広めて下さろうという勢いみたいなものの広がりを感じることが出来て、こちらも感慨深かった。
「じゃあ、ストーリー上のネタバレなしということで、話を進めてみますね」

   1時間喋る。話に区切りをつけたら8時27分だった。
   このあと、真木さん、津堅さん、まつもとさんたちと食事に出たのだが、まつもとさんはえらく興奮しておられた。
「3時間必要、といわれた意味がわかりました! 1時間じゃ全然聞き足らない。お客さんたちももっと聞きたそうな顔をしてました!」
   津堅さんまでが「いやあ、聞いてよかった!」といわれた。
   知りたい一点だけじゃなく、その周囲を取り巻く世界まで知った上で臨む、「この世界」があってはじめて「その片隅」があるのだというあたりのことでだった。

   翌5月4日(月・祝)は、握手会というのをすることになった。握手がメインというより、しばし時間を与えられてお客さんのひとりひとりとお話しするという時間なのだった。昨夜聞いていただいたお客さんたちの多くが来られて、感想をうかがうことになった。昨夜は原作未読のまま友人に薦められてきた方々も、すっかり仲間になって下さっていた。

   昭和19年の5月3日(水)には、内務省より告示があって、呉市が「重要防空都市」「疎開地域」に指定された。まだマリアナ沖海戦で負ける前なので、日本本土を直接狙える基地は存在しないはずだったのだが、日本政府はやがてさらに負け戦になって本土上空に敵機多数が現れるようになることに備え始めていた。疎開を実施して人口を他地域に移動させるような事態は多くのデメリット、多大なエネルギーと様々な損失を伴ってしまうのだが、それもやむをえないことと考えられていた。繰り返すのだが、政府中央はこの時期すでに負け戦は必至と考えていた。
   すずさんはそんなこととも知らずふつうの生活のある日々を送っている。多くの主婦たちが、冬物を片付ける前につぎあてしておいたり、畑に新しく植え付けるものの支度をしている。

   その一年後の昭和20年5月4日(金)、政府は一般疎開を当分中止する「疎開応急措置要綱」を決定している。3月以来始まった大都市市街地空襲は、B-29を沖縄戦支援に転用するために一時的に停止されていた。爆撃の主軸は、沖縄戦に参加する日本の航空隊の発進基地である南九州の飛行場群に向けられていた。時折、航空機生産の拠点工場への空襲がその合間に混ざった。
   そうした合間を縫う航空機産業攻撃の一環として、昭和20年5月5日(土)には呉のひとつ隣の広が空襲を受ける。広には第十一海軍航空廠があり、壊滅的な被害を受ける。すずさんの義理の父・円太郎さんの勤務先だ。すずさんはその夜、心配に暮れることになる。

   徳島では「ここも空襲で焼け野原になった土地ですから」という言葉をたびたび聞いた。帰り道で岡山駅までわざわざこちらの顔を眺めに来てくださった岡山在住の方があったのだが、そこでも「岡山も空襲で焼け野原になってますしねえ」という会話を交わしたりした。ゴールデンウィークに徳島の川縁で遊ぶ人たちの顔、新幹線であちこちに旅行する家族連れの顔々を眺めたあとに、70年前の同じ日付の出来事をこうして思い起こしてみて思うのは、今のほうが良いよなあ、ということだったりする。それに尽きる。

2015年5月7日