平成27年5月23日(土)。
広島から一冊の冊子が届いた。
『証言 記憶の中に生きる町 中島本町・材木町・天神町・猿楽町』ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会 中川幹朗編
編者の中川先生が送ってくださったのだ。
『この世界の片隅に』の冒頭に登場する広島市中島本町や、近隣の町でかつて生活しておられた十数名の方々の思い出話が載っている。ヒロシマ・フィールドワークで設けたお話を聞く会で、それぞれの方々が語られたことの記録だ。中川先生はそうした会を何回も開いて来ている。
女性の話者の方は苗字が変わっておられるのだが、旧姓が添えられている。すずさんが道に迷って歩き回る中島本町の店々は、一軒一軒店の名を調べたので、あの店の方! とわかる。すずさんが立ち止まる玩具屋さんの娘さんがいる。
それから履物屋の息子さん、理髪館の息子さん、写真館の息子さん、化粧品屋の息子さん。
なぜかこの本の中には僕も登場している。2013年7月と2014年7月の2回のヒロシマ・フィールドワークの話を聞く会には参加させていただいている。そのうち2014年の会では、記憶を語る方の話が聴衆によくわかるように、話題に合わせてスクリーンに地図や関連写真を映写してくれないかと中川先生から頼まれたことがあったからなのだが。そのついでに少しだけ時間をもらった僕は、一本の映画を作る中で中島の本町の景観を描き出すために苦労しているのだと喋っている。ときどき「ここがわからない」というと、履物屋の息子さん、理髪館の息子さん、写真館の息子さんたちが、「こうだった」と答えてくださっている。
こうした折々に僕は、「なんとか中島本町のところの一部だけでも」画面を作って広島へ持参するのだといってしまっている。約束は遅れに遅れている。
そうしている間に、つるや履物店の上田昭典さんの訃報に接してしまったのが残念でならない。上田さんには、大正屋呉服店のショーウィンドウの下のところに金ピカの手すりがあったこと、隣の大津屋モスリン堂にもやっぱり金ピカの手すりがあったように覚えていることなどをうかがった。
上田さんは昭和3年生まれ、おうちは迷子になったすずさんがたたずむことになる大正屋呉服店から40メートルくらいのところ、ヨーヨーをやっている子どもたちをうらやましそうに眺めるヒコーキ堂菓子店の真向かいだ。ひょっとしたらヨーヨーをしている男の子こそ上田さんなのではないかいう気すらして来てしまう。
送られてきたばかりの『証言 記憶の中に生きる町』のページを開くうちに、まさにそのことを僕が上田さんから聞いている場面が採録されているのに出会い、思わずうつむいてしまった。
中島本町のシーンだけは早く作りたい、と繰り返しいってきながらそれが出来なかったのは、きちんとした制作体制を構えられなかったため、専任の美術監督を迎えられずにきたからだった。
今は、それが出来るようになっている。映画全体を見据えたカラースケッチを展開させ始めている。
これまでに、試作品的な映像をお見せする機会も何度かあったのだが、それらは出発点を定めるための礎石だった。今は、少し違ったプランで美術が進み始めている。
そしてその机の上には『証言 記憶の中に生きる町』が置かれているのだった。町の片隅の小さな小さな世界のかけらのようなものへの思い出を読みとって、画面の上に残せていけたらよいのだが。
作画打合せも繰り返してきている。
同じ5月23日、こうの史代さんがわれわれのスタジオにやって来られた。描き上げた『すずさんからの手紙』の原稿を持参して下さったのだ
これまで原作では語られていない、ちょっとしたすずさんの日々の報せ。
中身のことは今は詳しくは言えない。クラウドファンディングでご支援いただいた方のお手元に届くまでは内緒だ。
5月24日朝、午前8時55分に「クラウドファンディングの支援額が29999000円になっている」とツィッターで教えてもらった。眺めていたらその5分後には数字は「30003000」に変わった。目標額の150%を越えた瞬間だった。