2015年3月9日から募集を開始した『この世界の片隅に』アニメーション化への制作支援を求めたクラウドファンディングは、のべ82日間の募集期間を満了し、5月29日18時に受付を終了した。目標募集額を2000万円と設定したクラウドファンディングだったのだが、最終的にはその181%にあたる3622万4000円もの支援を寄せていただくことができた。
この場をお借りして、お礼の言葉を述べさせていただきます。
本当にありがとうございます。
正直申せば自分は関係者の中でももっとも楽観的な考え方を持っていた方で、原作の愛され方からしても150%は超えて伸びるだろうとは思っていた。だがそれでも、175%までは達しないのではないかという予想に終始していた。最終局面での支援の集まり方の勢いはほんとうに目覚しかったと思う。
支援を寄せて下さった方の数は3374名となっている。
支援額によっては、お名前をエンディングクレジットに載せさせていただく約束になっている。
これについては、比較的早い段階から、「クレジットには父や母の名を」「祖父母の名を」というご希望をたくさんいただいていた。「映画制作に関するクラウドファンディングとしての支援額の新記録」ということももちろんありがたいことなのだが、アニメーション作品としてそうした年代の方々、あるいは故人のお名前を画面上に刻みたいという気持ちが寄せられたことこそほんとうに異例のことなのではないかと思う。
以下は私事になる。
実は、自分も両親の名前を載せてやろうとポチってしまってたし、うちの妻も自分の両親の名でクラウドファンディングに参加していた。妻は、放っておけばこの世界に何も残らないかもしれない普通の人である父母の痕跡を映画の画面上にでも記しておければ、という気持ちだといった。
妻の母は、戦時中には国民学校児童だったのだが、今はもうこの世にいない。妻の父の方はまだ存命しているのだが、施設で介護を受ける身になっている。
「いくつなんだっけ、お父さん」
と聞くと、妻は「大正14年生まれのはず」といった。
すずさんと同い年なのだな。
その妻の父がこの5月に入って要介護の度合いが増えたとのことから、今までのところから別の施設に移ったと聞かされた。夫婦で見舞いに出かけた。妻の父は大阪の出身なのだが、故郷に帰りたいという願望が強かったことから、妻の兄が昔住んでいた大阪の町で新しい入居先を見つけていた。大阪までは車で日帰りもかろうじて可能だ。
訪れてみると、だいぶ認知症気味だといわれた妻の父の頭はかなりはっきりしているようで、どうも耳がほとんど聞こえなくなってしまったこともあり、意思を示すのが億劫になってしまっただけのようにも見えた。ただ、以前のように立って歩いたり、自分で食べたりするのはもう無理なようだった。以前はなんでも自分でやってのけていた人だっただけに、痛々しくはあった。
妻の兄夫婦も来た。兄が今回の施設への入所手続きの書類を書いているのを見たら、「大正14年生まれ」ではなく「大正13年生まれ」だったとわかった。大正13年のしかも早生まれなので、すずさんと同年齢ではなく、すずさんの兄「鬼いちゃん」要一と同学年ということになる。ちなみに、妻の父にも兵隊にとられた軍歴があった。
今は91歳になった妻の父を目の前にして、あらためて、戦時中を生きた人たちのことを考えてみてしまう。徴兵年齢の下限に近かったこの人がこんなにも不自由な年齢になってしまっている。『この世界の片隅に』はもう少し早く作り上げていたかったなあ、と思ってしまう。
この映画を作ろうと思ったとき、大正14年生まれのすずさんは85歳だった。86歳くらいのすずさんの存在は十分思い描くことができた。すずさんはもちろん架空の人ではあるのだが、彼女が存在しているのだという感触は大事にしたかった。
今は90歳になったはずのすずさん。ずいぶん待たせてしまってほんとうに申し訳ない。
86歳の頃、妻の父はまだまったくぴんぴんしていた。年齢の近い妻の父がベッドに横たわるのを見つめながら、この何年間かの時間をあらためて噛み締めてしまう。
施設を出ると、そこは妻たち兄妹が子ども時代を過ごした町だった。兄は、大衆食堂に入ると、おはぎを注文した。子どもの頃食べなれたおはぎだったのだろう。
今回のクラウドファンディングにはたくさんのご高齢の方、故人となってしまった方のお名前が載ることになるのだろう。そのこと自体が、映画の中で描かれた世界が、今のわれわれの世界とまったくの地続きである証拠となるはずだ。
この映画にはたくさんの方々の想いや気持ちと、時の流れが重なってしまっている。