4月17日に周作さんと段々畑で肩を並べて見た大和は、その4日後の4月21日には呉を出港して、マニラを経由してシンガポールの近くにあるリンガ泊地へ向かっていた。そうしてしばらくすずさんの視界から姿を消していた大和が帰って来るのは6月24日(土)。ただ、まだこの日には大和以下の艦隊は、呉とは江田島を挟んだ反対側にある柱島付近に停泊しているので、すずさんからは相変わらず見えない。すずさんはもちろんしらないのだが、この間に決定的なことが起こっている。日本が事実上戦争に負けてしまっていたのだ。
18年9月に政府中央で定められた「絶対国防圏」、すなわち「帝国戦争遂行上太平洋及印度洋方面ニ於テ絶対確保スヘキ要域」とされたものが、その周縁に当たるニューギニアやビルマなどではなく、よりによって日本本土の玄関口とも言うべきマリアナ諸島で打ち破られてしまったのだった。南北にひとつながりに並んだ伊豆七島の列島線をどんどん南に下ると小笠原諸島に連なり、さらに南下してマリアナ諸島にまで至る。6月19、20日、この大和を含む日本海軍は、マリアナの正面の海で、戦力をこぞって艦隊決戦を行ったが、これに敗北してしまった。艦隊は沖縄中城湾で再集結し、柱島にまで戻りついた。24日には天応丸が、翌日には浅間丸が呉から柱島水域へ向かっている。天応丸は戦争初期に拿捕したオランダの病院船。浅間丸は戦前、「太平洋の女王」と呼ばれた北米航路の客船だったが、海軍省に徴用されて特設運送船になっていたもの。ともに任務は、艦隊の負傷者を呉の海軍病院に運ぶことだった。
マリアナ諸島がアメリカの手に落ちると、ここからは日本本土までB-29が飛んで来られるようになる。米軍がB-29という爆撃機をすでに持っていることを日本陸海軍はすでに知っていたし、だいたいの性能も計算の上把握していた。
この6月16日には中国奥地の成都付近を発進したB-29が北九州を初めて空襲し、呉でも空襲警報が鳴っていた。B-29がマリアナ諸島のサイパン、グアム、テニアンを基地としたならば、首都東京ですらその爆撃圏内に完全に収まってしまう。これ以降の戦争は、「いかに好条件で講和するか」にテーマが絞られてゆくことになる。特攻隊とか沖縄戦、本土決戦などもそうした文脈の上に位置づけられてゆく。最終的に、講和の仲介者になってくれるはずだったソ連が敵方に回って参戦した時点でこのテーマも閉ざされ、日本は降伏することになる。だが、それはこの時点からは1年以上先の話だ。
浅間丸が臨時の病院船になって柱島に向かった19年6月25日(日)、呉鎮守府は、日曜日なのにもかかわらず、隷下に対してこんな命令を出している。
「木造庁舎の屋根裏天井板を逐次撤去すること」
対応が早い。B-29が飛来したならば、焼夷弾を投下するだろうし、それは屋根瓦を貫いたあと屋根裏で停弾し、そこで火の点いたナパームを打ち出すものだということも日本側は知っていたのだった。天井板を外してしまえば、焼夷弾は屋根裏に留まらず、床まで落ちて来る。そこを消火してしまおうというのだった。すずさんたちが民家である自分の家で同じことを行うようになるのは、この9ヵ月くらい後のことだ。
さらに同じ25日、巡洋艦最上、鈴谷がまず柱島から呉に入港して修理を始める。翌26日には利根、筑摩、熊野、高雄、妙高、羽黒が呉に入った。利根、筑摩はほとんど船渠に直行している。雪風などの駆逐艦もこの日呉に入港している。翌日以降さらに巡洋艦愛宕、長門以下の戦艦、さらに空母の残存艦など修理すべき大群が続く。
6月26日(月)の呉鎮守府からの通達では、呉海軍工廠で緊急工事施行中なので、
「呉鎮機密第182014番電に拘らず2200以降と雖も特例あるまで灯火準備管制と為すことを得ることを定められる。但し上空蔽閉を行い、閃光等は極力之を小ならしめ緊急事態に即応可能の如く措置し置かれ度」
としている。この頃、呉での灯火管制は夜遅い22時以降にだけ行われていた。けれど、順番に修理しなければならない艦船が山盛りになっている状況では、夜といえでも明かりは落とせないし、溶接のスパークも飛ばさなければならない。
すずさんは、夜になっても港からガンガンいう音が聞こえてくるなあ、と思っていただろうか。
6月29日(木)には大和と武蔵が呉に入港している。おねえさん径子さんが小松菜の種をもらってきて、すずさんがおかしな場所にそれを埋めまくるのはこの頃のことだ。すずさんの周辺はまだのどかだ。「種は畑に蒔くものだ」とおねえさんに叱られたすずさんたちは、家の裏の段々畑に登ってそこで大和を見る。これがすずさんが大和を目にした二回目になった。
今の6月もちょっと忙しい。
6月24日(水)、NHK広島放送局が来社取材。スタジオの様子の撮影と、さらに監督インタビューもといわれるのだが、撮出し作業中なのでかなりメロメロ状態になってしまっている。
6月25日(木)、パイロットフィルムの撮影打ち合わせ。クラウドファンディングで支援いただいた方々を招いて行うファン・ミーティングに映像を間に合わせなければならない。何回かに分けて各地で開かれるその最初の回は7月4日、もう間近に迫っている。
6月27日(土)、広島で開催される日本マンガ学会第15回大会に合わせて、「広島メディア芸術振興プロジェクト~広島ゆかりの作家 作品展」がこの日から開かれる。基本的にはマンガ方面の展示なのだが、われわれにも「どうぞ」といっていただいていたので、この際、こうの史代さんの原作原稿と、その同じ場面をアニメーションで描く際のカラーデザインボードをひとつのパネルに組み合わせて、それをパネル10枚ほど展示することにした。原作の冒頭場面がどんなふうに色がついたアニメーションの画面になっていくのか、その過程がわかるようにと考えたものだ。マンガ学会のシンポジウムに参加のために会場に来られたこうのさんからは「いい感じの展示ですね」といっていただけた。
広島で展示してありがたいのは、「ここ違ってますよ」といってもらえることだ。今回展示物を指さして指摘してもらったのは、自分でも知っていることだったので、なんでこんなことになっちゃってたのだか、完全にケアレスミスだ。7月4日までにこれも直しておかなくては。
自分自身は日本マンガ学会には縁のない身なのだが、今も『この世界の片隅に』のレイアウト展を7月10日まで開催してもらっているまさに最中である北九州市漫画ミュージアムの学芸員の表智之さんや、ずっとお世話になりっぱなしの広島・比治山大学美術科マンガ・キャラクターコースの久保直子先生たちが運営側に回っておられる学会なので、よそよそしくなくってありがたかった。旧知である上に、このあいだの徳島でごいっしょした京都精華大の津堅信之さんもおられた。
27日夕方の懇親会に潜り込ませていただき、さらにその夜の合宿座談会には「片渕監督を囲む輪」というのまで作ってもらってしまった。
6月28日(日)、マンガ学会の大会会場と同じ建物の中で13時から50分間、トークショーの時間をもらっていた。内容は、せっかくマンガ学会の関連イベントなので、マンガから映像化する際に付け足されることになる「色」と「音」に絡めた話にしてみた。座席が70席くらい用意してあったのは事前に見ていたのだが、あとで聞くと、立ち見を含めて150名くらい聴いていただいていたとのことで、そのほかちょっとのぞいていった人が80名くらいあったのだとか。
「230名ですよ!」
「230名も、ですか」
展示の設営をやってもらった三宅君といっしょに東京に帰る新幹線に乗った。車中、爆睡してしまったのはいうまでもなく。