昭和20年7月のすずさんの周辺。
7月1日(日)から2日にかけて呉を夜間焼夷弾空襲が襲った晩は、梅雨の雨で、B-29が雲上よりレーダー爆撃して来るのに対し、雲に閉ざされた地上の対空砲火はB-29を視認できず、射撃を行えていない。この空襲の最後の方で雲がわずかに晴れてきて、音戸砲台のみが14発を撃った。
この年の梅雨はどうもそのまま終わってしまったらしく、夜が明けた2日の日中は早くも30度まで気温が上がっている。そのまま中旬まで晴の日が続いて、7月15日(日)は広島での最高気温29.6度。晴から曇りになり、一時小雨となる。
7月下旬には、豆台風や低気圧が九州北西部から山陰に進んだり、雷雨性強風を伴いながら和歌山県を上陸するようになる。
さらにその翌週には最後の呉空襲が数日間に及んで実施されるのだが、この頃のすずさんは毎日何度も鳴る警報のサイレンで防空壕内に篭る時間が増えている。
平成27年7月の自分たち。
7月16日(木)。
広島の中国新聞から「こうの史代さんと片渕監督の対談」を掲載したい、という依頼があり、新聞社の記者さんにわざわざ上京してもらって、われわれの仕事場で(例によって本棚の前で)取材が行われることになった。
実は、この夜に東京を発って呉に向かい、17日朝から最後のロケハンを行うつもりでスケジュールを組んでいたのだが、折りしも台風11号が接近中であり、しかも広島方面を直撃するコースが予報されていたので、現地に立っても何も風景が見えなくなってしまう可能性があることから、1日順延して様子を見ることになった。
7月17日(金)。
朝から片渕ひとり新幹線に乗って広島経由で呉に向かう。台風の進路はやや右寄りになり、岡山付近が豪雨になっているようだったが、新幹線は支障なく動いているようだった。ただ、前日の予報というか警告がよほど強烈だったのか、広島一帯のローカル線は軒並み運休してしまっていた。呉線も含めて。とはいえ、台風の進路から外れた広島・呉は雨も降らず、風もないままのようだった。正午頃にはさすがに呉線も動き出しそうな構えを見せていたのだが、こちらは新幹線車中から呉在住の友人に連絡を取って、広島駅まで迎えにきてもらうことにした。
呉到着は遅れられない理由があった。この17日夕方には、呉駅前の阪急ホテルで広島経済同友会呉支部の会合があり、そこで講演をする予定になっていたのだ。講演といっても、いつもの「ここまで調べた『この世界の片隅に』」をやればいいのだが、会場に到着し、次々集まってくる参加者がみなスーツ着用のものものしさだったりするのが、ちょっといつもと違った。一応、一般参加もありだったので、カジュアルな格好のファンの方も混じっていたが、ちょっと驚かれたかもしれない。
トークショーというよりまさに「講演」という感じだったので、多少それっぽい口調で話してみたのだが、中身はだいたいいつもと同じ感じになってゆく。
さらに、その後の懇親会でも、パーティルームにプロジェクターとスクリーンが据えてあって、晩餐の間にもトークが出来る仕掛けになっていた。昔の呉の写真や、戦中から終戦から間もない頃の航空写真を披露していると、
「そこに映っている小学校、ワシの母校です」
「おお、ワシんちが映っとった。親父が子どもの頃のワシんちです」
という盛り上がりを見せ、すっかり和んだ雰囲気になった。
本来ならこの懇親会の間にロケハン隊の後続、美術・林、演出助手・三宅のふたりが広島でレンタカーを借りて呉に到着する段取りになっていたのだが、なかなか来ない。催しが終わって、すべてがお開きになって、仕方ないのでホテルの前の道端で1時間くらい時間を潰していたら、ようやくやって来た。どうも僕が通ったときにはふつうに走っていた新幹線が、その後また豪雨に見舞われて途中で停まってしまっていたらしかった。ご苦労様でした。
その夜は、両城の「石段の家」に泊めてもらった。
7月18日(土)。
呉の景色はどこかふつうな感じではない。独特な空間になっている。それを、これからこの町を絵にしてゆくことになる美術のスタッフに体感しておいてもらいたかったのだ。そんなの監督がこれまで度重なるロケハンを行ってるのだから、監督が口で説明すればいい、とプロデュース方面から釘を刺されているのだが、そのために監督がいちいち美術に付きっきりになるよりも、美術に自分の目で見て味わってもらい、こちらから何もいわなくても自発的に絵を描いてもらえるようにする方が遥かに効率的なのだ。
18日は、何せ呉には台風が来なかったようなので台風一過というのでもないのかもしれないが、とにかく一連の中でこの日だけ晴に恵まれた運のよい天候となった。
辰川、上長ノ木、下長ノ木、朝日町、警固屋、潜水艦桟橋、灰ヶ峰山頂、海軍第一門、呉病、宮原と回る。ロケハンも効率的に行えたので、呉の主だった場所はほぼすべて14時半までに林君に味わってもらうことが出来た。
この18日の夕方からは広島市内で、クラウドファンディングに参加していただいた方を集めた制作支援メンバーズミーティングがあるので、僕は三宅君にレンタカーを運転してもらって広島に向かった。林君は呉に残って、レンタサイクルを足にして、刻々変わりゆく夕方の光線を眺めたりするのだという。
制作支援メンバーズミーティングには、映画冒頭部分の中島本町を描くためにご協力いただいた旧住民の方々にも来ていただけることになっていた。こうした方々とのやりとりをこれまで取りまとめていただいていたヒロシマフィールドワークの中川幹朗先生がみなさんに声をかけて下さったのだった。中川先生からは、
「みなさんご高齢になってきているので、中島本町の場面だけでも完成させて広島で映写してもらえないでしょうか」
といっていただいていたのだが、それを実現するために1年以上かかってしまった。レイアウトは描けても、その風景を絵にする美術のスタッフを雇い入れることが出来なかったのだ。それが可能になったのはひとえにクラウドファンディングで支援をいただいたおかげなのだ。
冒頭の中島本町シーンは、原作と同様『冬の記憶』と題した短編映画の形に編集してみた。ただ、音楽も、効果音も台詞もまだ付けられないので、完全なサイレント映画として、台詞は字幕で出すようにしてみた。完成はこのわずか数日前の7月15日になった。
最高齢の方が体調が優れないということだったので、イベントの冒頭いきなり『冬の記憶』を映写することにした。この映像だけは何を置いてもお見せしておかなければ、というこちらの思いがあった。
旧中島本町とその周辺に住んでおられたみなさんが、この映像を見てどう思われたのかはわからない。人攫いのバケモンが出てくるたわいもない話でもあったので。ただ、この方々に一軒一軒の店構えについてお話をうかがっていたら、いつもいつも話の穂先は子どもの頃、町のあそこで、ここでこんなふうに遊んだ、というふうに向いてゆき、幼く幸せだった頃のことが語られるのを繰り返しうかがっていたので、すずさんの幼い日々の記憶が幸せに語られる場面をこの町を舞台に描けるのは、なんだかふさわしいことのように思えてならないのだった。
7月19日(日)。
呉・広島は一転して雨。ほんとうは、広島湾から見える島影を林君に見てもらおうと思っていたのだが、ちょっと適いそうにない。スケジュールの密度を考えると、ロケハンという形で呉や広島を訪れるのはこれが最後のはずだが、天気には勝てない。ともあれ、林・三宅組を、それでも彼らが何かを目にするべきものを見つけるだろう広島に残して、僕は新幹線に乗って大阪に向かった。東京で4回、広島で1回行った制作支援メンバーズミーティングの最後の1回が大阪の会場で行われるのだった。
この最後の1回も、幸いにも好評をいただいて終えることが出来たようだった。
以前、実写の俳優さんから、「ああ、アニメは天気待ちをしなくていいんだなあ」と感心されたことがあったが、ロケハンだけはそれがある。スタジオに篭って絵を描き続ける作業にはそれがない。あとはひたすら心の中に抱いた空の風景を絵にしてゆくばかりの日々となる。
『冬の記憶』は、まだ多少の手直ししなければならないところもあるにしても、とりあえずは形になった。中島本町の場面は描き終えた。これからはすずさんが大人になって住む呉を描いていかなければならない。今回のロケハンが今後の作業で意味を持ってゆく。