昭和20年8月のすずさんの周辺。
この年は空梅雨に終わったが、8月3日と4日は呉にも久しぶりに雨が降った。沖縄付近から北上しつつある台風の仕業だったのだが、この台風はすぐに高気圧に追われてしまう。この間にも日本本土には空襲が相次いでいた。5日からは晴空が戻る。天候が回復した翌日が広島への原爆投下となった。
異変を感じてスイッチを入れられた北條家のラジオからは雑音が流れるだけだったが、そのあともずっとつけっぱなしにされていたら、あるいは昼ごろには広島放送局の電波を拾えていたかもしれない。
この日、広島市内にあった広島中央放送局(JOFK)は被爆大破していたが、技術者が郊外の原放送所(電波送出施設)まで逃れ、あらゆる手段で大阪中央放送局(JOBK)と連絡を取ろうとしていた。「手段」としては電話や中継放送用の短波も使われたが、通常の放送用電波を使って大阪を呼び出すことも行われた。当事広島周辺にはまだ生きてスイッチが入ったままの電池式ラジオがいくつもあって、広島局が大阪に呼びかける声は意外に多くの人々が耳にしていた。呉軍港周辺にいた軍艦の無線室でも傍受されていた。このラジオの声は大阪までは届かず、だが岡山放送局(JOKK)が聴き取ってくれていた。
そこまでして大阪中央放送局を呼び出そうとしたのは、原爆で広島の町は壊滅してしまったが、ラジオは放送を続けなければならないので、大阪から番組を送って欲しいと要請するためだった。
広島駅は数日で復旧し、広島市内には徐々に電灯も点るようになった。短期間で路上の清掃が行われ、広電の電車の運転も恐る恐る始められた。こうした作業に従事した人々は結果的に残留放射能による被爆に苛まれることになってしまう。
あらゆるインフラストラクチャーが「毎日」を取り戻そうとする中、原爆の効果が速やかに分析され、投下から数日後には兵士を熱線から防護する白頭巾の量産が呉市内で始められていた。命令があって停められるまでは、戦争を続けるという「毎日」も続行されていたのだった。
8月15日のラジオは、本来ならば朝からニュース、ラジオ体操などの通常番組で始まり、午前7時半からは京都の盂蘭盆中継を行うことになっていた。マイクロウェーブのないこの当事、短波を使うことで全国中継も可能になっていた。正午の「報道」(ニュースはこう呼びかえられていた)、に引き続いて放送されるはずだったのは、「民謡夏の旅第二日」。夕方からはレギュラー番組の「小国民の時間」「国民合唱」「報道」、さらに「箏の室内楽・千鳥の曲」「放送劇・護時院ヶ原の仇討(森鴎外原作)」「現地報告 麦と甘藷の村」と続くはずだった。
実際には、未明に起こった陸軍の一部将校によるクーデターに東京中央放送局が占拠され、その鎮圧後には正午に「重大放送」が割り込むプログラムで進められて、こうした番組は「和平発表に付中止」となった。
和平、または終戦という重大事態を迎え、翌16日以降のラジオ放送からあらゆる音楽が消えた。こんなときに音楽はかけられない、というのだった。今ならばテレビのCMが軒並み公共広告機構ACのものに差し換わってしまうのと共通する、自粛ムードとなったのだった。
この音楽自粛が終わったのは、あれだけ続いた大戦争の終結に対するものとしては意外に短く1週間しか続けられなかった。8月23日、最初に復活した通常番組は朝のラジオ体操だった。この日はニュースの時間でも音楽がかけられ、「農家の時間」が再開された。以来、ラジオ体操は今日に至るまで毎朝ずっと続いている。
こうの史代さんは「『この世界』を描いている間は、ひとりで戦時中に暮らしているような孤独な気持があった」と語られていた。自分自身のことでいえば、この数年は自分が戦時中の空気の中にいると感じられるようおのれを騙そうとずっとしてきた。空襲があった日付には、空襲開始から警報解除までの同じ長さの時間、ずっと防空壕の中でひざを抱えて座っている自分を頭に浮かべてみるとか。もちろん、そんなことで想像できるものにも限界はあるのだが、それでもなお、NHKの8月15日番組資料に残る「和平発表に付中止」という文言を目にしたとき、この「和平」という言葉がなんだか明るさを放っているように感じられてしまって、ホッとした気持ちがこみ上げてきてしまうのだった。