これまでの終戦経緯の昭和20年8月から1年さかのぼった昭和19年8月頃のすずさんの周辺からはじまる話。
この年は空梅雨もいいところで、呉のあたりでは6月7月を通じてあまり雨が降っていない。田に水を張れなくて田植えが出来なくて困ったようだ。それだけでなく、「道の土ぼこりがすごかった」という話もある。
呉の土は、『マイマイ新子と千年の魔法』で舞台にした山口県防府市のものと似ている。『マイマイ新子』のロケハンで訪れた防府で、どうも土の色が白っぽいような気がして、絵作りに取り入れてみた。
「そういわれればそうかもしれないけど、日頃住んでるモンはかえって気づかないもんですな」
と、地元の方からはいわれた。
これは花崗岩質の岩盤が風化して出来た「マサ土」だったのだが、明治時代の防府の多々良山の写真を見ると、今とは違って生えている木の密度がかなり薄く、この白っぽいマサ土の地肌が広く露出している。
呉の山も大正から戦後すぐくらいの写真で見ると、今現在目にする風景とは違って、あちこちで地肌が露出しているのがわかる。
今年7月、クラウドファンディングの支援者ミーティングのために広島を訪れた合間に行ったロケハンでは、美術の林君に土の色もよく見てもらった。こういうところでその土地らしさが出てくるのだと思う。ただ、山の形は昔も今も変わらないのだが、山の木々はこんもりと茂るようになっていて、段々畑がほとんど消滅してしまったのと合わせて、呉の風景を『この世界の片隅に』の物語の当時とは違ったものにしてしまっている。
しかしながら、戦前の呉の山の写真は探すのが至難だ。もし外国の軍隊が来襲するようなことでもあれば、形のわかる山を基点に間接照準射撃で軍港に大砲の弾丸を降らせられたりしてしまう。そうしたことを恐れて、戦前から戦中にかけての呉周辺の山の形がはっきりわかる写真は残されないようにされていた。山の姿はみな修正で消されていたのだった。
戦後になるとそういうことはもちろんなくなる。戦後すぐの呉の写真を大量に残しているのは、進駐軍だ。日本が戦争に敗れた後、日本本土には最初は米軍が入ってきて占領したが、その後の連合軍各国による分割統治になって、中国地方は英連邦軍(B.C.O.F.)の担当となった。山口県はニュージーランド軍、広島県にはオーストラリア軍がやって来た。本来ならば県の中心である広島市は原爆で施設が破壊されてしまっていたので、オーストラリア軍は呉に本拠を置いた。呉鎮守府の司令部庁舎は空襲で焼け落ちていた。今でこそ焼け残った赤煉瓦の壁を使って屋根を架け直しているのだが、終戦直後は青天井の焼け跡としかいえない廃墟だった。なので、周作さんが勤務していた呉鎮守府軍法会議所の建物がB.C.O.F.の司令部となった。
このオーストラリアから来た人たちは、ときどきスポーツ大会をやっていた。場所としては、旧呉海兵団の団外練兵場がもっぱら使われた。今の入船山公園の運動広場だ。表彰式だとか、オーストラリアのお偉いさんが掲揚台の旗竿の下の段に上がって挨拶している写真もたくさん残されている。今回、このあたりの写真をたくさん集めて整理していて気がついたのは、この掲揚台の場所が元の軍法会議所の建物の真ん前だったことだ。偉い人たちが司令部からすぐに来られる場所に演壇が作られていたのだった。
それはさておき、オーストラリア軍が撮り残した写真には、戦後ほどない呉の山の写真が写っている。いちいちプリントアウトして、美術に持って行って見てもらう。カラー写真も結構ある。
「こんなにあちこち地肌が出てたんですねえ」
ついでなので、山田洋二監督の昭和47年の映画『故郷』のDVDも回してみる。これは呉の目の前の倉橋島の石運搬船の夫婦の話だ。倉橋島の段々畑に麦やサツマイモが植わっているところも画面に出てくる。今では見ることができなくなった風景が残されている。
「ああ、ほらほら、段々畑の土の色」
「ほんとだ、ベージュ色だ」
「土も石も同じ色だなあ」
「海の色は瀬戸内海出身者から『広島湾は緑色』ってきいてたけど、こういうことなんですねえ」
美術のスタッフたちには、その土地らしさについて、いろいろなイメージを拾ってもらうことができたと思う。
「こんなふうに絵にしてみましたけど」
と、描きかけの背景を見せてもらうと、呉の土の香りが感じられるような気がする。その上で暮らすすずさんの存在が感じられてくる。