昭和19年の8月31日、すずさんは嫁入りしてくる前の友人たちに宛てて、呉の郵便局から葉書を出したらしい。
クラウドファンディングを通じてこの映画にご支援下さったみなさんにはもうそろそろその葉書も届いたことだろうと思う。
原作の「漫画アクション」での連載が終わったのが2009年1月、平成でいうと21年のことだ。単行本にまとめられるときに巻末に何点かのイラストが描き足され、最終回ですずさんと出会う女の子のその後の姿を見ることができるようになった。それから、すずさん自身が描いた漫画『鬼イチャン』が描き足された。
その翌年の夏には広島県廿日市市で『夕凪の街 桜の国』と『この世界の片隅に』の漫画原稿の原画展が開かれ、そのとき、来場者にもれなくプレゼントするため『鬼イチャン』だけを集めた豆本をこうのさんが作られ、そこにさらに新作の「鬼イサン」が描き足された。
もともとの漫画では語られていなかったすずさんの様子がわれわれの前に本格的に示されたのはそれ以来、ということになるのかもしれない。しかも『鬼イチャン』に引き続いて今回もまたすずさん自身の筆によるものだった。 なんにせよ、葉書を見る限り、すずさんが元気そうでよかった。葉書をもらうまで、すずさんが宮島詣でをしたことがあるだなんて思いつきもしなかった。
すずさんがこの葉書を出しただろう昭和19年8月の下旬は、海軍サンが酒を飲むために繰り出すことが多い呉の街でも、さすがに夜間の灯火管制がきっちりしはじめている。夜の街は暗く、明かりのあるところを見つけたければ、映画館に入るのがよいのだった。外の光を遮断して場内を真っ暗にできる映画館は、逆に内側の光を外に漏らすこともないので、灯火管制のない空間になっていた。街中の書店ではもう本も並ばなくなっている。夏の終わりとはいえこの頃の呉の気温はまだまだ高く、お天気もよく、ようやく涼しさを覚え始めるのは、9月も第二週目に入る頃になる。そう思うと、われわれの平成27年のほうがずっと涼しい。
レイアウトや原画の作業も進んでいるし、背景の作業も進んでいる。いずれどこかでまた一連の映像の形にまとめてお見せできるようになればいいなあと思う。
「いったん仕事が始まっちゃうと、そのあいだは調べ物くらいしか趣味ってなくなっちゃいますものね」というのは、今年6月に広島で行われた日本マンガ学界の大会におけるシンポジウムでのこうの史代さんの言葉なのだが、われわれにしても実際そんなところがある。事前にあれだけいろいろ調べ物をしてきたつもりでも、そのときにはわからなかったり、なんだか手をつけかねて後回しにしてきてしまったことを、実際のカットの中で描く作業のために片付けてしまわなければならなくなる。
ロケハンで現地の現在の姿を写真に撮ってきてあったので、それを見ながら描けばいいやとぼんやりと思っていた場所の当時の姿が突然不安になってきてしまったりする。あわてて当時の写真を集めなおしてみると、やはり植生がまるで違っていた。最近はすっかりこんもりした緑に覆われている呉や近隣の島の山々は、かつては「耕して天にまで至る」段々畑だということが頭ではわかっても、なかなか二重写しになりにくい。そこで、戦後早い時期に進駐軍であるアメリカ軍やオーストラリア軍が撮影した写真を集め直すことになる。
実はそうした同じ写真を準備作業の初期にも眺めたりもしていたのだが、ここまでいろいろな見聞を積んだ上でもう一度見直してみると、以前にはどこを写した写真なのかわからなかったものが、今ではかなりの高率で見当がつくようになっている。
前には漠然と「呉鎮守府の庁舎裏付近に鉄塔が何本か立ってるんだなあ」と思っていたものが、今では三本ある呉海軍通信隊の無線鉄塔の根元がそれぞれどこにあるのか勘がつくようになっている。乱雑に「Kure」とだけ撮影場所がキャプションされたオーストラリア軍の写真も、眺めて「これはあの辺かな?」とひらめくようになっている。その場所をGoogleのストリートビューで眺めてみると、六十数年前の写真に写っていた石垣が、石の一個一個の形までそのままほぼ完全にその場所に残っていることが発見できてしまったりするのだった。そこは2011年の最初のロケハンのときに「間に合わなかった」場所だった。ほんの数ヶ月前まではそこには大正時代に建てられた海軍の官舎が残されていたのだが、われわれが訪れたときには一歩遅く取り壊されてしまっていたのだった。だが、ようやく今になって、家は壊されても階段状のその敷地の石垣が当時のまま何も変わらず残されていることに気がついた。ほんとうに何の変哲もない、どこの住宅地にもよくあるような石垣なのだ。
ふとしたことで時はつながる。タイムマシンは決して実現しないかもしれないけれど、かつての時代と通じ合うことは十分可能なのだ。