2015年度の日本心理学会の公開シンポジウムとして、『アニメの心理学』というテーマが設定されたのだが、これまで映像学会やアニメーション学会でアニメーションの作画の動きを考える研究会活動を行ってきた片渕も話題提供者に加わるようにといわれた。このシンポジウムは同内容のものが、第1回は7月26日に札幌の北星学園大学で、第2回が10月4日に世田谷の日本大学文理学部で開かれた。
全体を通してのトーンは、日本のアニメーションで特長的な3コマ打ちの作画の意味を、動きを認知する人間側の機能から照らして積極的に捉えるという部分で通底している。従来なら「3コマ打ちなど経済的理由による省力化の産物だ」くらいに述べられていたことからすると、大きく前に出た姿勢を示しているつもりだ。
ただ、全体では3時間に及ぶ催しなのだが、ひとりあたりが喋ることができる持ち時間は20、30分しかなくて案外短く、これまでにやってきた研究会をのぞいたことがない方にはちょっと説明が足らな過ぎたかもしれない。そこで、この場を借りて、自分が述べたことだけに関してある程度の補足を行っておきたい。
まず、最近『この世界の片隅に』に新たに加わったベテランの原画マンにこれまでに作ったパイロットフィルムを見せたところ、
「ぬるぬる動いてますね。何コマ打ちなんですか?」
と尋ねられた。
アニメーションの作画について「ぬるぬる」という言葉で動きの印象が語られることは多いのだが、実はこの「ぬるぬる」の意味は一定していない。
①まず、若いアニメファンの人は、動いたり止まったりを断続的に繰り返す日本の多くの作画法に対して、ずっと連続的に動きっぱなしに作画されたアニメーションを「ぬるぬる」という。
②それに対して、比較的古手の世代では、1コマ打ちの作画がもたらす独特の印象についてこの言葉を使うことが多い。
シンポジウム全体として、動画像を人間が受容するための原理である「仮現運動」には、1回あたりの移動距離の小さなSRAM(ショートレンジ仮現運動)と、移動距離が大きいLRAM(ロングレンジ仮現運動)の二種類に大別して語られる傾向があった。以前に行った研究会では、このうちショートレンジの方は仮現運動ではなく、実際に存在する物体が実際に動いているものを見るときと同じ「実際運動」として人間の脳は捉えているのではないか、という指摘がされていた。現実に動いているものでありつつ、実際に存在するものならばひじょうに複雑に形が変化して見えるはずのところ、中割りを多用してしまうアニメーションの作画では形の変化に乏しい。そのため、動きは現実の様であるのに、フォルムの変化が非現実的であることから、違和感が感じられてしまう。これが、この1コマ打ち作画の場合の「ぬるぬる」感の正体なのではないだろうか。
ともあれ、アニメーションが作り出す「動き」はすべて架空のものであるはずなのに、このように「現実に動いている」と認知されてしまう可能性があることはひじょうに興味深い。
③さて、ここで『この世界の片隅に』での動きについて「ぬるぬるしていますね」と述べられた意味合いは、①に近いようだが実はちょっと違う。そのあとに「何コマなんですか?」という問いがついていた。これは、「大部分3コマ打ちで行っている」というのが正解なのだが、30年以上作画の仕事に携わっていて「3コマ打ち」と「2コマ打ち」の区別くらいふつうに見分けられる人から見てさえも、「何コマなのか?」という問いが発生したところにポイントがあるように思う。
もうひとつポイントがあるとすれば、すずさんがひじょうにのんびりと、非エキセントリック的に動く人物であるというところだ。3コマ打ちの作画ではあるのだが、きわめて「ショートレンジ」なので、仮現運動的にではなく、実際運動的に捉えられてしまうのではないだろうか。
1コマ打ちの作画は、受容のされ方が実際運動的であり、しかし、フォルムの変化に乏しく、現実にはない印象を覚えてしまうので、相当意識した上で作画に臨まないと違和感が感じられてしまう。
2コマ打ちの作画は、やや実際運動的であり、しかし、形の変化の乏しさがある程度スポイルされるので、きわめて見やすい動きになる。
3コマ打ちの作画は、ロングレンジ仮現運動になりやすく、実際に存在する物体が動いているのを眺めるときの印象とは違って、動き自体が架空的、ファンタジー的な印象になるのではないだろうか。
それぞれのタイミング法の基本的な傾向が以上の様であるとして、『この世界の片隅に』のすずさんの動きは、「3コマ打ち」でありつつ「ショートレンジ」的、つまり実際運動に近い印象を与えているような気がする。それゆえ、ベテランのアニメーターが3コマ打ちなのか2コマ打ちなのか一瞬判別に迷うようなことになってしまったのではないだろうか。
実際、『この世界の片隅に』Cut11のすずさんの動画1カット分70枚の輪郭線を1枚に重ねたものをシンポジウムでの映写用に用意したのだが、驚くほど狭いエリアの中で線が重なり合っていた。
こうした「実際運動」のようである動きの印象は、穏やかに動作するすずさんの性格がもたらした効果なのだともいえる。自分は架空の存在ではなくたしかに存在しているのだ。そんな印象を、すずさん自身が残そうとしていたかのようなのだった。