ここ何年か毎年毎年11月になると出かける場所があって、どちらも外せないものになっている。
ひとつは文化庁のメディア芸術関連事業として毎年開催されている「アニメーションブートキャンプ」というもので、全国から募集した受講生を栃木県那須高原にある大学の研修施設で4日間の合宿で教える。プロダクション・アイジーの後藤隆幸さん、スタジオジブリの稲村武志さん、テレコム・アニメーションフィルムの富沢信雄さん、それに不肖片渕といった顔ぶれが毎年ほぼ固定で講師陣を務めることになり、それにさらにプロの作画現場から精鋭が講師として加わる。今年は11月20~23日という日程になっていた。
もうひとつは、11月に開かれる広島国際映画祭で、ここでは毎年アニメーション映画『この世界の片隅に』に関するワークショップを開くのが恒例になっている。映画祭代表の部屋京子さんからは「映画が完成するまで毎年来ていただきますから!」といわれて、もう4年目になる。4年もやって映画が完成していないことには「なんだかなあ」と思わざるを得ないのだがともあれ、このワークショップの日程が11月23日。
このほか、7月に『この世界の片隅に』のトークイベントのために訪れた浜松で「11月にははままつ映画祭というものがありますので、そこでも作品上映とトークをぜひ」とお誘いをいただいていたのだが、その日程が11月22日。
アニメーションブートキャンプでの自分の仕事は、受講生に「コンティニュイティ」の概念を教え、4日間で行う課題を説明し、絵コンテを描かせて指導する、というもので、例年4日間の日程の中の初日と2日目までが主な受け持ちになっている。
様々に勘案すると、
11月20日(金)那須
11月21日(土)那須
11月22日(日)那須発、浜松で映画祭に参加、広島へ移動。
11月23日(月・祝)広島の映画祭に参加、東京へ戻る。
という日程で行動すれば全部をこなせるということがわかってしまった。
なんともはや。
詳細は省く。
いろいろあった末に、23日月曜日の朝を広島のホテルの一室で迎えた。
この日は広島国際映画祭の最終日であり、行事が立て込んでいたので、『この世界の片隅に』のワークショップは一番早い時間帯、午前9時半からスタートして11時半まで2時間で、ということになっていた。
そんな朝早くであるのに、客席はほぼ満席になっていた。
これまでも小黒祐一郎さんに企画していただいて「ここまで調べた『この世界の片隅に』」というトークイベントを東京で繰り替えして来たのだが、そもそもは4年前、この映画祭がまだ「ダマー映画祭inヒロシマ」という名称だった2012年11月に場所も同じ広島のクレドホールでワークショップを開かせてもらったのが、一連の『この世界の片隅に』」トークイベントの最初だった。
4年目にしてはじめて、色がつき動く映像を持参することが出来た。
今年7月のクラウドファンディングの支援者ミーティングの際も、広島の会場ではじめて映画冒頭部『冬の記憶』を上映することが出来ている。『冬の記憶』の主な舞台である広島市中島本町の戦前の姿を教えて下さった高齢の方々になんとかいち早く完成画面をお見せしたいという思いからだった。
今回は、広島でもそれ以外の場所、江波、草津、それに呉の風景を届けようと、『冬の記憶』に続くパートである『大潮の頃』と、『13年2月』『19年2月』の一部を完成映像として持参した。やや残念なのは、あわただしいスケジュールの中で作ったために、手直しが済んでいない箇所が多く残ってしまっていたことだった。
終了後に、ヒロシマフィールドワークの中川幹朗先生から声をかけられた。中川先生は中島本町の昔を知る人たちを捜し求めては聴き取りを重ねてこられた方であり、『冬の記憶』を作るために多大なるお力をいただいている。その後中川先生は、すずさんの生まれ故郷である江波に対しても同じような活動を始められていた。中川先生は、戦前からずっと江波に住み続けておられる大岡喜美枝さんという方と出会われて、「この機会に監督にお引き合わせしたい」といっていただいていたのだった。
大岡さんは93歳。すずさんよりも3歳年上だ。
「わたし、山文で働いていたことがあるので、今日のお話の中に山文が出て来てうれしかったです」
山文というのは江戸時代には頼山陽も訪れていたという由緒ある料理屋で、江波の入り口あたりに位置した。今回の映画でも描ければ描きたかったのだが、店の表側の造作を知ることができず、断念していた。そのかわりに、山文の向かいにあった松下商店の前をすずさんがパタパタかけてゆくシーンは作った。このカットの手前の方で、道路に影を落としているのが姿がわからない山文の建物だった。
トークでは「この影が山文です」と説明したのだが、大岡さんはそれを聴いていて下さった。
「こんなのをお持ちしました」
といわれ、いただいたのは、江波山の南側の海岸、下がり松の下のところに貝をすなどる格好で立った女性の写真だった。
「姉です。こんな格好で潮が引いた海のところに出て、アサリを採ってました」
潮が引いて露出した海底は、牡蠣殻などが散らばっていて、足を切りやすく、脚絆をつけて、ゴム底の地下足袋を履いて出たのだということだった。頭には手ぬぐいをかぶった上に麦藁帽子を重ねてかぶっていた。日差しが強い季節の写真に違いない。
画面の手直しをしたかったのはまさにここ、潮が引いて露出した江波山の南の海の底の場面だった。
大岡さんからうかがったことは、翌24日にスタジオでメインスタッフたちにそのまま伝えた。みんな意欲が刺激されたようだった。映画はまたひとつ育つことが出来るのかもしれない。