前回のハワイ攻撃のニュースが流れた昭和16年12月とは一転した、昭和20年12月のすずさんの周辺。
先月20年11月末日をもって海軍は廃止された。海軍省も名目上廃止されて、第二復員省という名に変わっている。引き続き勤務する人は、これからは「第二復員官」という肩書きになる。この役所では、戦うことではなく、戦争のために外地へ出してしまった将兵を日本に引き上げさせるのが目的となる。
周作さんは第二復員官になりかけて退職しているらしい。
ところで、海軍から引き継がれた第二復員省に勤務する職員はどういう服装をしているのか、というと、これもちゃんと定められていて、「第二復員省公報」で告示されている。旧軍人も含めて「平服トス」というのが決まりとされている。ただ、終戦直後の物のない時期でもあり、平服すら容易に入手できない人もあることを考えて、
「各種軍装は一切の徽章及区別章類ならびに制規の釦(ボタン)を取除き之を平服として代用することを得」
という決め事も含まれている。海軍の制服の金ボタンには錨マークがついており、これは外して別のボタンに取り替えて、海軍の軍服らしくないようにしてから着るように、ということだった。写真を眺めていたら、この時期まだ生き残っていた潜水艦の乗員で、紺色の下士官第一種軍装の上着に黒色のボタンを着けて着ている人が写っていた。写真をさらによく見たら、この同じ潜水艦の艦長の戦闘帽からも錨マークが消えていた。
周作さんもそんなふうになりつつ、お役所勤めの最後の仕事をしていたのかもしれない。
昭和天皇の弟である高松宮は海軍大佐だった。呉に勤務していたこともあり、市内の新宮に別邸を借りていたのだが、戦後最初の冬の12月に被爆地広島を視察するために訪れてみたら、この別邸には人が大勢住んでいた。高松宮は、すずさんがよくその前を通った下長ノ木の三ツ蔵のすぐ目の前の澤原氏別邸(宮様たちがよく泊まった)には向かわず、高台の三宅清兵衛(清酒千福を造っている酒造会社の社長)邸を宿にしている。三ツ蔵や澤原氏別邸は直接には大きな戦災被害を受けていなかったが、二軒先までが7月2日の焼夷弾空襲で焼けていた。海辺から下長ノ木までがずっと焼け跡になっていたのだった。
その高松宮が翌朝に見た印象を日記に書いているのは、
「呉の町はさすがにやはり朝早くから人通りあり、焼けて進駐軍が来ているが、まだまだ工廠町の気分あってうれしい」
ということだった。
焼け跡になった呉市内のカットのレイアウトを描く参考にするために、高松宮が記したような時期の呉市内の写真を引っ張り出して見ているのだが、相変わらず見渡す限りの焼け跡にバラックや三角兵舎が点々としているだけで、写真だけ眺めていてはそうした賑わいがあったことなど想像も出来ない。当時その時点で書かれた日記というのはほんとうに参考になる。
日記といえば、広島の中国新聞の報道部にいた大佐古一郎記者が当時記していた日記もたいへん参考になっている。
大迫日記の20年12月27日には、
「軍国主義者は平和主義者となり、愛国行進曲はクリスマスキャロルに一変する。融通の効く民族」というようなことが記されている。どうやら、終戦から最初のクリスマスの町中にはクリスマス曲が流れていたようでもある。
この映画を作っているわれわれはクリスマスを祝ったり、忘年会に勤しんだり出来るのだろうか。疑問符に囲まれながら机の前にいる。