これを書いている今は年の瀬も押し詰まっている。
自分自身は今年は、新年を迎えるための自宅の大掃除などすべて断念してしまって、仕事場に居続けている。
昭和19年から20年にかけての呉市の配給状況を記した表が手元にあるのだが、この表には食料配給だけでなく、衣料切符を使って購う繊維製品の配給状況も記録されていて、その19年12月のところがたいへん興味深い。
たとえば「反物類」は、
19年
1月3200反 2月0 3月17680反
4月4544反 5月0 6月8560反
7月23760反 8月24800反 9~11月0
12月22176反
という内訳になっている。この数字は呉市民30万人全体への全配給総量であるわけで、住民ひとりひとりにはまったく行き渡らない量でしかないのは明らかなのだが、それにしても12月は、年度替り前の3月と盛夏期と並んで配給量が多い。
同じ表の「下着雑貨」は19年1月2384枚、あとはずっと0が続き、6月1120枚、また0になって、12月が12248枚と一桁多い数になっている。
このほか19年中にはまったく配給されなかった「足袋」「糸」「国民服」も12月にはそれぞれ178920足、15650巻、321着という量が配給されたことになっている。
30万人に対する数としては微々たる物でしかないのだが、それでもそれまでまったく配給がなかった足袋が市民2人に1足よりもまだ多い数がいきなり配給される事態となっている。
食糧配給のほうでもみかんや最低限の魚肉の配給が考慮されていた。
こうしたことからわかるのは、戦局も押し詰まったこの時期であっても「お正月」ははっきり意識されていた、ということだ。しかも、それは民間一般だけのことではなくて、食糧・衣料配給に携わる公的機関の人々の間でも遵守しなければならないことになっていたようだ。この表はそんなことを語っているかのように見える。(ちなみに、19年8月のお盆にはビールが配給されたりもしている)
ときどき引用しているこの当時に中国新聞で記者をしていた大佐古一郎氏の日記には、昭和20年の正月の外出服装は戦闘帽ともんぺ姿ばかりになって、昨年までいた紋付袴がまったく見られなくなるった、と書かれている。ということは昭和19年の新年にはけっこうなパーセンテージでふつうにお正月らしい格好をした人が闊歩していたのだということになる。
別のところで仕入れた話では、20年の元日、鎌倉八幡宮の白羽の矢をもった参拝者で電車が混雑した、と書かれていた。
ただし、この正月の餅は、精白しきっていない米を搗いたものだったので、色も黒っぽかったし、餅にすらならず黒っぽい蒸パン状だったともいう。
ふと見ると、毎回「19年8月」「19年12月」とされていた原作『この世界の片隅に』も、昭和20年1月の回に限って、
「20年正月」
というサブタイトルになっていた。