「すずさんの730日」を描く、というのが『この世界の片隅に』であるのかもしれない、とずっと思ってきた。730日というのは1年365日を単純に2倍しただけの数ではあるのだが。
原作にはそれに若干の前日譚がついているのでそれももちろん画面に描く。だが、こうの史代さんのそもそもの構想では、「戦時中のすずさんのお話」を描こうとして準備していたところに「短編を描かないか」という話をもらい、それならば、とまず描いたのが戦前の日々にあたる前日譚3本だったのだという。
「戦時中」とひとくくりに語られてしまう日々であっても、1日1日に変化があるのであって、それぞれが独特な1日だったのだ、それがたくさん積み重なってすずさんのあの時期の730日となっているのだ。そんなふうに考えたところから、この映画作りはスタートした。それだからこそ、その頃の毎日のお天気を調べてみたり、すずさんの家の裏の畑から見える港に停泊している船の名前や数を調べてみるなどというようなこともする羽目になっている。
昭和20年の1月は全国的に冷え込み、雪が多い冬となっていた。最近でも成人の日や大学入試センター試験の日の頃には東京でもかならずといってよいほど雪が降るのだが、昭和20年は元日からして小雪まじりだった。1月4日の新聞紙面は「元旦の初詣客、例年の四割減」という見出しを各紙とも掲げていたらしいのだが、もちろんこれは天気のせいだけではあるまい。1月1日から警戒警報が鳴りまくり、呉のあたりでも広の水上機基地から水上戦闘機が盛んにスクランブル発進を繰り返していた。
1月17日から3日間にわたり、呉では家屋の白壁に迷彩塗装を施す作業が行われた、と記録されている。原作第29回で周作が家の壁を墨塗りしているのがそれなのだが、実はこの1月の時期の行ったことだったようだ。
まだ国内経済が普通の態勢だった日中戦争の頃には、塗料メーカーがこうした用途に使うための「迷彩塗料」を各色発売していた。ある意味、「非常時ブームへの便乗商法」といってしまってもよいのかもしれなかった。ただ、本格化した戦時中には、国家総動員法を根拠とした産業統制が行われ、そうした自由に物を作り売ることは出来なくなってしまっていた。それどころか、全体としての産業統制のために非効率と思われれば廃業を強制されることも多々あった。必要なところに材料と人的資源を配置し、戦争遂行の目的に必要な産品を得るのである。
戦時中は、たとえば一般用途の赤色塗料は「不要」とみなされ生産できなくなった。このため、トラックやバスなども軍用車と同じ茶褐色(いわゆる国防色)で塗装されるようになった。消防車ですら茶褐色に塗るしかなくなったが、敵機から機銃掃射される空襲中に唯一活動しなくてはならない消防車のカモフラージュとしては、結果的に適した色合いだった。
そんなようなこともあり、日中戦争期には緑や茶色など織り交ぜた「防空用迷彩」がほどこされることもどこかイメージされていた日本の都市も、いざ本当にそれが必要となった時期には、結局黒色一色で迷彩を施すしかなくなっていた。この場合、まだらに迷彩するのではなく、幾何学的な四角形を組み合わせた、いわゆる都市迷彩のパターンで塗り分けられることが多かった。建物を地物に似せようと擬装するのでなく、ゲシュタルト崩壊的に建物自体の形をよく分からなくしてしまおうという知覚心理学的な効果を期待しての迷彩だったので、使用塗料は黒、それに場合により白、それらを混ぜた灰色くらいがあれば十分ということだったのかもしれない。
昭和20年1月中旬の3日間、呉ではそんな迷彩塗装風景が見られたわけなのだが、そんな世界を描こうと映画を作っているわれわれの毎日にはまるで変化が訪れなくなっている。毎日毎日、朝起きて、決まりきった家事をこなし、仕事場に来て仕事をし、夜遅くなったらそんな時間にでも開いているスーパーマーケットに立ち寄って買い物をして、家に帰って食事して寝る。
ちょっとだけ違うのは、スーパーで売っている果物に変化があることくらいだろうか。いつの間にかスイカがなくなり、梨がなくなり、柿がなくなり、そろそろイチゴが出てきた。そうしたわずかな変化がなければ今が何月なのかもよくわからなくなってしまう。夜空の星を見るでもなく、庭に咲く花を見るでもなく(今年はチューリップの球根も植えなかった)、自分たちが気づかないいつの間にかのうちに季節が移ろってゆく。なんだか、手がけている作品の趣旨と裏腹な日々になってしまっている。