ちょっとさかのぼって、昭和13年1月のすずさんの周辺。
原作「波のうさぎ(13年2月)」に「正月の転覆事故の日もこんな海じゃったわ」という台詞がある。原作のコマの横の欄外には、こうのさんの字で「昭和十三年一月二日広島市の宇品港で強風による客船の転覆事故がありました、江田島の海軍兵学校へ帰る生徒も犠牲になりました」と記されている。
この海難事故は実際に起こっていたのだった。
当時の新聞・中国日報によれば、
「二日午後四時四十分ごろ、江田島汽船みどり丸(一四トン)屠蘇客およそ八〇名を乗せ能美島に向かう途中、峠島付近で強風をうけ右舷に傾き約五分で沈没、三日正午までに五一名救助(うち一一名死亡)、同朝呉鎮掃海艇数隻回航、潜水夫を入れ、船体を引揚げ、船室内から二一死体を収容、なお不明九名」
記事がいう能美島とは江田島と陸続きの島で、つまりひとつの島の上に東能美島、西能美島、江田島という三つの島名が存在しているのだった。峠島は本土の宇品港を出港するとすぐ目の前に浮いている島だ。
江田島の海軍兵学校というのは全寮制なので、通いの生徒はいない。1月2日はまだ年始休み中だったはずと思うのだが、夕方の船で帰寮しようとする生徒もあったのかもしれない。昭和13年1月2日午後の広島は、雲量9、気温11度、風速12~15メートルという天候だった。
この1月2日事故の犠牲者の四十九日は2月19日土曜日にあたる。原作に「ようやっと四十九日じゃろ」という台詞がある。とすると、この「波のうさぎ(13年2月)」は2月19日の前後ということになる。土曜日の当日ではない。午後に図画の授業があることになっているからだ。原作では教室の時間割表の月曜日の午前中を描いたコマがある。昭和13年2月21日月曜日の広島の天気を見てみると、ほとんど風がなく、うららかだったようだ。「正月の転覆事故の日もこんな海じゃったわ」という台詞にはちょっと当てはまらない。そこで、18日金曜日の天気を見てみると、夕方午後4時には風速12メートルが記録されている。すずさんが江波山で哲と過ごしたのは、どうもこの日だったのではないだろうか。
いずれにしても、われわれは風を画面の中で表現しなくてはならない。
それにしても、今現在われわれがいる仕事場も冷え込んでいる。MAPPAの第2スタジオの暖房は、床のあちこちに置かれた石油ファンヒーターなのだ。
朝いちばんに仕事場に出てみると、ときどきまだ部屋が暖かいことがあり、明け方頃まで誰かが仕事していたのだな、とわかる。
「こんなところにも机があったのか」と人も驚く迷路みたいになった奥まったところに動画チェックの藤井さんの机がある。われわれの事前の計算ミスでときどき動画にまでなったカットの作画を修正しなければならなくなってしまうことがあるのだが、そういうときは藤井さんの机を訪れる。正月休みも短めに早々に出勤してきては黙々と仕事をこなし続けるがんばり屋さんなのだが、ごくまれに机にいないときにはすぐわかる。藤井さんの机の横に置かれた電気ストーブが消えているからだ。
この映画の作画を始めたごく初期には、どれくらいのタイミングで動かせばよいのかこちらもまだ掴みきれていなくて、いったん出来上がってきた動画に対してさらに中割りの枚数追加をお願いするようなこともしばしば起こってしまった。その都度、動画監督の大島さんに迷惑をかけてしまったのだが、最近ではさすがにそういうこともなくなった。すずさんが動く速度はだいたいわかったつもりでいる。けれど、それでもまだなんやかんやと出来上がった動画に対して修正をお願いしてしまうことがあって、そういうときにはできるだけ身を低くして社内にいる藤井さんのところに向かうのだった。
早く春になるといいな、と思うべきところなのだろうが、時間には出来るだけゆっくり流れてもらいたい。こなさなければならないことが山のようにあってしまうもので。