3月上旬。
仕事場のすぐ近くに消防署があって、毎日訓練の声が勇ましく聞こえてくる。3月10日の朝、その屋上のポールに半旗が掲げられていた。通勤の途中でも、別の消防署に半旗が掲げられているのを見た。この日は昭和20年に東京下町に対して大規模な焼夷弾空襲があった日にあたる。東京消防庁が、70年以上経って半旗を出して弔意を表し続けていることの意味を考えてみる。
この3月10日空襲は米軍の戦略の転換点に位置する。この日以降、空襲は一般市民を積極的に標的とするようになる。
この空襲を題材にしたアニメーション映画『うしろの正面だあれ』に携わってからもう25年にもなる。それ以前には、こうした現実に存在した「人の死」を描くことが自分の仕事の使命だなどとは考えていなかった。だから初めは同じスタジオの中で行われている作業を外側から眺めていただけだったのだが、この映画の作画監督の小野隆哉さんに頼まれてレイアウト回りのことを受け持つことになった。端的にいえば、昔風の日本家屋を大量に描く仕事だったので、まあよいか、と思って引き受けた。
住居や町の細部を描いて「世界を構成する細部を構築する」と述べれば格好は良いが、実際手をつけ始めると分からないことが多すぎた。道を歩くときも、通りすがりに建つ家並みの軒下の構造をのぞきながら、という日々になった。今のようにインターネットで手軽に資料を漁れなかったこの頃にあっては、日本家屋にある畳の部屋の広さだとか、木でできた階段の構造だとか、屋根の仕組みだとか、そうした色々なものをまるで実感できるような画面とするためには、自分がこれまでに生きてくる中で体験したり見聞したものを総動員するしかなかった。たとえば、主人公の家の階段を描くときには、自分が幼い頃に住んでいた古い家の階段を思い浮かべて絵にしてみたりした。幼心にはちょっとした恐怖を感じた、階段の急な角度。一段一段の段差の大きさ。階段の幅。木でできた質感。自分の記憶の中にあるそうした記憶を呼び起こして、ようやく階段ひとつ描き終えると、その次には、同じ階段がある家が空襲で燃える場面に思い至らなければならないのだった。自分の知っているものが燃えていくような、奇妙な感じを味わうことになった。
自分が確かに知っていてリアルと感じるものが、まったくの異世界とつながってゆく不思議さ。
このとき芽生えたそうした感覚をポジティブに活かしたのが『マイマイ新子と千年の魔法』であるのかもしれない。当然、『この世界の片隅に』にもつながってゆく。
その翌日にあたる3月11日はあの東日本大震災の日付なのだが、消防署の屋上に半旗はなかった。やはり少し遠くの土地のことだから、ということなのか、あるいは単に雨まじりの天気だからなのか。
あの日、2011年3月11日。すでに集め始めていた『この世界の片隅に』用の資料が自分の上に崩れてきた瞬間のことが、今でもまざまざと思い出される。同じ日の夕方、映画製作上の打ち合わせのために神楽坂の双葉社まで出向き、東京が大渋滞でたいへんなことになっていたその中に自分も混ざることになってしまった。
同じ年の翌12日には、そのしばらく前に亡くなっていた畏友・片山雅博さんを送る会を行っていた。交通があちこちで不通になっている中、よくあれだけの人たちが全国各地から集まってきたものだと思う。その会の最中に、原発が震災の被害を受けておかしくなっている、という報せがあったりもした。
そうしたものは始まりの日付に過ぎず、丸2年後の3月11日のために作ったつもりの『花は咲く』アニメ版も、もう完成から3年経っている。CD+DVDの売り上げから被災地への援助金を得るのだ、といって作ったものだったが、役に立てているのだろうか。
3月18日は広島艦載機空襲の日付。
3月19日は呉艦載機空襲の日付。
とうとうすずさんたちの頭の上にもそうしたものがやってきてしまうことになるのだが、それらもまたひとつの「始まりの日付」に過ぎない。3月から先の日々の中で、呉の市民たちは繰り返し繰り返し空襲にさいなまれることになる。