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片渕須直監督コラム「すずさんの日々とともに」

   今作っているのはこの秋公開の映画なのだが、映画の存在を世の中に知ってもらうためにできるだけ事前に試写を行いたいなどの目論見があって、可能な限り早く完成させたいと思っている。そういうことがあるために、春になるのが、3月になってしまうのが恐ろしいと思っていた。なのにもう4月だ。
   例年、MAPPAではこの時期にお花見を行う。近所の公園でシートを広げ、普段なかなか顔を合わさない第1スタジオの人たちと語らい(『この世界の片隅に』班は第2スタジオだ)、丸山さんの飼い犬を撫でたりする。つい先日、講師として教壇に立っている日本大学芸術学部映画学科の卒業パーティーがあり、自分のゼミの学生も、直接教えていない学生も含めて、アニメ業界に就職できた何人かと会話を交わした。中にひとり「MAPPAに入りました」という学生がおり、
「2スタのみなさんとはなかなか顔を合わせられないとのことですが、4月2日のお花見が楽しみです」
   と早くもそんな話をしてきた。新人のお披露目もお花見の大事な目的のひとつだ。
   けれど、スケジュール急迫という状況下にあるわれわれには、今年、お花見のお誘いのカケラももらえなかった。もっとも、誘われても、
「ゴメン、忙しくてそれどころでは」
   というしかなかったのだけれど。
   あいにくその週末はとても寒かったのだが、花見はちゃんとできたのだろうか。

   前にもどこかで書いたかもしれないが、広島の方では4月3日がお節句になるらしい。これは、旧暦から新暦に変わったときに、3月3日の桃の節句をこの時期にやってしまおうということになったからだという。お盆に旧盆があるみたいな関係なのだろうか。そしてなぜ「4月3日」なのかといえば、この日が戦前の祭日「神武天皇祭」にああたるので、休日になっていたからだともいう。
   原作第28回「20年4月」はこの日に当る。戦時真っ只中のはずの昭和20年4月3日は呉海軍工廠もお休みとなっていた。佐世保では桜が散り始めていたというから、呉では真っ盛りだったのではないかと思う。東京はまだつぼみがひらきはじめたばかりだったというから、やはりこの年は寒かったのかもしれない。
   当時、呉工廠に勤務していた人の日記を見ると、呉ではそのほかに梅が満開、麦が緑、寿司を食べた、とある。このお寿司は、本来桃の節句のひな祭に食べるちらし寿司なのだろうと思う。
   対米戦争が始まって割りとすぐの頃の婦人雑誌か何かに、「物資が不足する中で作るお節句のお寿司」のレシピがあったのだが、干し鰯を水で戻して酢でしめる、と書かれていた。ちょっとうんざりするような感じがする。それから3年経った昭和20年にはどんなお寿司が作れていたのだろうか。砂糖も各家庭にはなくなっており、甘いものひとつも口に出来なかったはずなのだが。
   お節句でお花見の日でもある4月3日のラジオは、沖縄への激励放送を行った。この昭和20年4月1日、米軍は沖縄に上陸を開始している。いよいよ、日本本土への攻略が始まっていたのだった。
   米軍は呉で生き残っている戦艦大和以下の日本海軍残存艦が沖縄方面に出撃してこないよう、周到に作戦を進めていた。3月下旬から呉港内に直接航空機雷を落として、港そのものを機雷原と化し、それでも生き残った艦船が日本海側に脱出しないよう、通り道に当る関門海峡をも機雷原に変えていた。
   大和はこうした米軍の動きをかいくぐって、呉から広島湾内の柱島泊地へ移動し、さらにそこも上空をB-29が飛んで危険となってきたので三田尻沖に移動している。『マイマイ新子と千年の魔法』の舞台である三田尻の沖の海に。大和が生き残っていられる海面は、次々と米軍によって航空機雷を敷設され、とうとう出口は豊後水道だけしか残されなくなった。
   4月6日朝、印象的な飛行機雲を残してすずさんの頭上を通っていったB-29の偵察機型F-13が、三田尻沖で大和の姿を写真に撮影する。
   とうとう最後の海面ですら安全でなくなった大和は、残されていた豊後水道ルートで沖縄に向う。だが、豊後水道には機雷を撒かずに残されていたのは、当然のごとく罠だった。4月7日、大和は米海軍機動部隊に捕捉され、撃沈されてしまう。

   すずさんが呉の二河公園でお花見していたのは、そんな頃のことだった。

2016年4月8日