35年前の大学の教室で、恩師の池田宏監督から、
「アニメーションの演出家は、今鳴ってる楽器が何なのか名前をいえなくちゃならない。でなきゃ音楽家と話できない」
と教わった。池田先生ご自身が東映長編の音楽付けをされたときに色々と苦心があったということなのかもしれない。そうした先人の言葉を学ぶ僕自身は日常的に音楽を聴く趣味もあまりもたない、ありていにいえば歌舞音曲からは縁遠い人間だったので、道の険しさを感じたものだった。
幸いというべきか、その後に自分が監督することになった『アリーテ姫』や『マイマイ新子と千年の魔法』では、音楽家の方々に恵まれ、音楽と映画自身が不可分であるような演出を行うことが出来た。
さて、今ここでまた『この世界の片隅に』にも音楽がつけられようとしている。
作曲家の方とはかねてから何回かに渡っての打合せを行ってきている。自分自身としては、今回の映画ではあまり劇伴音楽を使わず、効果音で世界を表現してゆきたいように思っていた。だが、3月に自分で音楽メニューを作ってみたところ、M1からはじまってM36までを数えるまでになってしまった。
テレビシリーズではそれが普通であるように、あらかじめ色々なバリエーションの楽曲を録音しておいて、そのストックの中から場面にあった曲を選曲して、シーンの長さに合わせて編集して使うというようなことはしたくない。全曲が画面の長さと、映像の中で行われている事象との関係で展開してゆくようでありたい。
今回は残念ながら、多くの部分は絵コンテ撮りの映像でしかないのだが、尺をほぼ確定した映像ワークリールを編集して作り、作曲家の方に送った。
やがてそれらMナンバーがついた楽曲がひとつずつ具体的な音の形をとって、デモ曲として届くようになった。こちらであらためて映像ワークリールに嵌めてみて、曲想に留まらず、映像のきっかけがうまく効く嵌めどころを確認してみては、「曲の尻をあとここまで延ばして音を作って置いてください」などというような注文を出す作業が続いた。5月後半になってからは、中でも重要な楽曲のデモが相次いだ。
5月28日(土)が音楽録音の初日となった。開始時刻から遅れて到着すると、ピアノの録音がある程度終わっていて、次はマリンバが演奏されるという頃合になっていた。その間隙をついて、ワンシーンだけあらためて作曲家の方と場面の意図をすり合わせておきたいところがあった。原爆が炸裂する場面に乗せる音楽についてだった。ことさらに残虐でセンセーショナルにではない音楽をつけたい。といいつつ、この映画全体を支配する音楽のムードとはわずかに一線を画したい。そのさじ加減について、こちらで考えてきたことを、すでに了解してもらってはいるはずなのだが、念押ししておきたい余計な気分に駆られてしまっていたのだった。
マリンバの演奏は、すずさんが楽しそうに日常生活を送るシーンに多く当てられた。
「おつかれさまでした」
と、演奏を終わって出てきたマリンバ奏者の方から、
「あの、あらためてうかがってしまうのですが……これはいったいどういう映画なんですか?」
とたずねられた。演奏前に監督が話す中に「地獄」というような言葉が挟まっていたのが、この方の耳に留まっていたのだった。自分が演奏した場面に対して、あまりにも不釣合いなその言葉。
意図をお話ししたが、何かビジュアルのわかるものを手渡せたらよかった、と思った。そうだ、この次には映画のチラシを持ってこよう。
5月31日(月)。最後までそこだけ空白になっていて、どうするのだろうと思っていたM36が届いた。ここの画面は音楽後に設計して絵作りすることになる。デモを聴いた松原さんや浦谷さんが「こういう画面はどうかな」とそれぞれアイディアを口にしている。われわれは音楽によって喚起されている。
6月1日(水)。音楽録音の2日目。今日は弦楽器なので、大きなハコを使う。『ブラックラグーン』や『マイマイ新子』の音楽を録音した同じスタジオだ。今回はちゃんとチラシをもってきたので、演奏家のみなさんにも手に取っていただけた。
「僕、呉に行ったことあります」
という方もいた。
6月2日(木)。元のスタジオに戻って、木管楽器と金管楽器。さすがに丸一日音楽収録に張り付くわけには行かないので、木管だけ聴いて引き上げるしかなかった。
その間にも音楽プロデューサーが、
「営業してきます!」
と、チラシをひと束持って、ロビーで出会った知り合いの人のところに持って行って下さった。あるいは、レコーディングエンジニアの方も「妻が音楽教室の先生なので、生徒に渡します」とチラシを一束持っていってくださった。
チラシを手にした木管演奏の女性の方は、「これの演奏を今日録音したって、ほかでしゃべってもいいですか」といって下さった。かかわったみなさんに、この仕事をそんなふうに位置づけてもらえるのが本当にありがたい。
楽器をひとつひとつ録音する過程では、音階の作り方がより明らかに耳に出来る。ある部分ではいかに伝統的日本的な音階を底に据えようとしているかという作曲の方の狙いが良くわかった。その段階では昭和20年代の日本映画のようでもある。その上にアンサンブルが重なってゆくと姿は一変する。これはまぎれもなく「今」の音楽だ。
メロディーは耳に焼きついている。画面の完成をガンバラナクテハ。