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丸山正雄プロデューサーのコラム「マルジイのメッケ!」第四回「ポンさんのことを思う」

   ポンさんが逝った。8月24日に入院先の取手の病院に行ったときにはすでに意識はなく、ただあったかい頬を、頭を撫でるしか出来なかった。 一週間前、担当医の通告で面会を許された時には多少会話も出来たのに……。24日には病室も個室に移されてしまっていて、ただただ沈黙するしかなく、痛みや苦しみが一刻でも来ないようにと、願うしか無かった。
   俺らはポンさんのあったかさにどれだけ援けられてきたのだろうか。あったかい眼差しあったかい言葉、人柄そのもののあったかい絵! 同期から後輩たち、全くの新人に対してまで偉ぶることなく、出過ぎることなく、焦れったいくらいに謙虚で、誰からも信頼され愛され、のんびりゆったり、まさに春風駘蕩、そのやわらかさで、剣呑で猥雑な現場を和ませてくれてたのに。はじめて出会った時から、まだあったかい頬っぺたに触れたあの日まで全く変わる事なく。

平田敏夫

昭和13年2月16日 山形県天童生まれ
武蔵野美大油絵科を卒業して
東映動画に入社
森やすじ氏を慕いその後、武蔵美の先輩(?)紺野氏の誘いもあって虫プロ入社。

平田監督のつれづれ日記 第八回『時をかけるじじい』

   出会ったのはいつだったろうか? 当然虫プロの先輩である。当時、テレビアニメの創成期で、一ヶ月先輩は今なら一年間先輩に当たるぐらいの経験値の違いがあった。
   俺が虫プロに入って『W3』に配属された頃、ポンさんは虫プロエリート集団で輝いていた『ジャングル大帝』班の中核だった。落ちこぼれ組の俺とは全く交流は無かったはずだ。だから出会いは、多分『W3』も終わり『ジャングル』も終わって『悟空の大冒険』が始まってからだと思う。ポンさんが銀座のジャガードに出入りしてた頃はすでに知り合っていたのだが、そのあたりの時間軸がどうにも曖昧なままになってしまった。

   昔話は年をとってからゆっくりととっておいたのに……。

   兎も角、知り合ってすぐポンさんは山形天童、俺が宮城塩釜の出身と解って、小学校の遠足で塩釜に行ったポンさん、山寺に行った俺は山形と仙台を繋ぐ仙山線の絆で結ばれてると確信したものだ。
   以来ポンさんが、日アニで仕事してる時もグループタックで仕事をしてる時も、絵コンテを頼みに出かけたものだ。俺が関わる監督はなぜか概ね個性的というか、濃い監督が多い。当然シリーズの第一話は監督が担当する。そこでシリーズのスタイルが決定する。監督は新しい何かを見つけ出そうと粘りに粘る。通常そこが決まらないと次の発注が出来ないのだが、俺には秘密兵器があった。1話の完成を待たずに2話をポンさんに発注してしまうのだ。どんな個性的な監督でも次がポンさんが担当してくれることが解ると納得してくれる。ポンさんの絵コンテは基本に則ってしっかり描かれていて、ともするとケレンに走りがちな監督と俺にブレーキをかけてくれるのだ。更に1話でやっとスタイルが決定した時、既に完成してるポンさんのコンテは大直しをせずに、チョコチョコ相談すれば完成することになる。出崎統監督は三行使えればいい脚本だと豪語したことがある。対照的なのがポンさんで、基本的に稿を重ねた決定稿を遵守する。ライターが脚本を読み直さない限り、そのまんまやってると思うように出来ている。然しよくよくチェックしてみると、シーンを入れ替えたりせりふを削ったり足したり、細かい配慮がなされてることが多い。おさむちゃんが出合い頭に頬っぺたを引っ叩いて、相手が驚いてる間に自分のペースに引きずりこむのと対照的に、ポンさんのはやんわりとじっくりと自分のペースに引きずりこんでしまう。俺が蟻地獄のポンさんとからかって、酷い言われ方と叱られたことがある。
   虫プロからマッドハウスで、丸山が設定とタイトルされてるものは、必ずポンさんがやってくれているはずだ(千葉に住んでいるから千葉住子とか、ポンさんなので本田元夫だとか、勝手にペンネームをつけたのもあるが…)。切っても切れない縁というものがあるという俺の強引さに、断り下手なポンさんが付き合ってくれただけなのだが、仙石線の絆が深かったのだと思う。丸山とのお付き合いの長さではもう誰にも破られないだろう。

   ポンさんが監督をした忘れられない作品がある。1981年の『ユニコ』と1984年(公開は1987年)の『グリム童話 金の鳥』と1985年の『ボビーに首ったけ』である。ポンさんは『ユニコ』を二本撮っている。一本目はサンリオでパイロットとして制作して、本制作で丸山が参加しての『ユニコ』である。パイロットは丁寧には作られてはいるだけのアニメだったと記憶して居る。本制作に際してサンリオスタッフではなく、若くて元気なマッドハウスのスタッフを起用してのアイディアは、ポンさん主導のものだったと思う。二作目の『ユニコ 魔法の島へ』が手塚治虫原作から自由に羽ばたき稀代のアニメ監督(尊敬を込めて敢えてそう呼ぼう)村野守美のものであったのに対し、ポンさん監督の『ユニコ』は手塚原作はきっちり踏襲し、杉野昭夫のしっかりしたレイアウトと華麗なタッチを生かし、当時小林プロに在籍していた男鹿和雄を美術監督に抜擢して完成させた、蟻地獄ポンさんならではの作品である。
   『金の鳥』しかり、福島敦子と大橋学を全面に推したて、音楽シーンを南家こうじに依頼したりして全体はポンさん好みの軽さ、しゃれっけで纏め上げている。『ボビー』に至っては、当時売り出し中のアニメーター森本晃司、なかむらたかし、福島敦子、美術の山川晃の力を世に知らしめる映画にする為に腐心したとしか思えない。然しどれにも共通する優しさ、あったかさ、お洒落感覚はポンさんならではのものである。
   実はポンさんの本来の良さは短編、中編にあると丸山は確信している。『まんが日本昔ばなし』のいくつか、手がけたオープニング、エンディングのいくつかにポンさんの良さが凝縮してるものが多い。特に忘れられないのは2002年『花田少年史』 のオープニングである。原作の展開からは考えられない、バックストリートボーイズの音楽に合わせて、主人公の少年一路がとある夏の日、ひまわり畑で麦わら帽子を風にとばされる情景のもので、絵コンテ、美術を担当、ここでも兼森義則を蟻地獄に引きずりこみながら完成させた。ポンさんなしには考えられない仕事である。

   発病を知らされたのは五年前だったか。「ごまかしながら癌と上手に付き合ってみせるから」「誰にも心配かけたくないから」 と言い、現れる時はいつもと全くかわらない感じでいてくれた。おしゃれでシャイな山形っ子のまま。癌は体のあちこちに転移していたらしく、今年になって病院通いから入院になって仕舞った。

   又、アニメ界はテレビアニメ創世記から昨日までを支えてくれた逸材を失ってしまった。とうとう言わなければならなくなりました。ありがとうそしてさようなら、最後までマイペースを貫いた生き方バンザイ!!


MAPPA年賀状のためにポンさんが描いてくれたイラスト

2014年6月23日